森本さおりプロフィール

このページは森本さおりのプロフィールページです。
秋田県で生まれ育った私の生い立ちから すべてを公開致します。最後までお読みください。

自信湧き上がる大人の健康美を作る
秋田美人養成パーソナルトレーナー

森本さおり 女性専門 パーソナル トレーニングスタジオ Fine秋田県出身。 高校卒業後、金融会社に就職し3年で2万7千人の顧客応対を経験し 接客サービスのキャリアを積む。 結婚後退職し専業主婦になるも、家事・育児だけに献身する生活に鬱屈する。 趣味で始めたジャスダンスが唯一自分の為に使える時間となり、 心が開放された経験によりエアロビクス指導士としてフリーランス活動を始める。 うまく踊れない人の心にも寄り添う温かみのある独自の指導に定評があり、 全国展開する大手フィットネスクラブにおいて秋田県トップクラスの人気指導員となる。 秋田県主催の健康トレーニング教室では参加者の友人・家族へも口コミで広がり、 10年間で延べ20万人がレッスンへ参加。 担当クラスの多くが予約も取りにくくなる状況となる。 その後、育児やケガ・病気などでグループセッションに参加できなくなり 孤立化する女性たちを目の当たりにしパーソナルトレーナーに転身。 家族思いの女性に自信を持ってもらおうと、 秋田県初の子供も同伴可能なマンツーマン指導專門のトレーニングスタジオを設立。 ボールやストレッチポールなどを使用し、 呼吸を意識しながら引き締まったボディラインをつくり上げる指導が注目される。 現在はキャンセル待ちが出る人気となっている。

《保有資格》
公益社団法人 日本フィットネス協会公認
GFI JAFA ADI 
エアロビックダンスエクササイズ REBI 
レジスタンスエクササイズ SEBI 
ストレッチングエクササイズ インストラクター
特定非営利活動法人 
日本Gボール協会認定 グループ・パーソナルインストラクター
JSAボールエクササイズインストラクター

秋田県認定
特定非営利活動法人 
スポーツクラブあきた公認
運動指導士

あなたが諦めなければ 身体はまだまだ変われます

私がパーソナルトレーナーになった理由
森本さおり 女性専門 パーソナル トレーニングスタジオ Fine

《目次》
第一章 「秋田の血」が流れる森本さおりの生い立ち
第二章 身体がつくられた学生時代
第三章 軽く考えていた就職先で待っていたもの
第四章 子育て中に唯一の「私の時間」だったダンスとの出会い
第五章 専業主婦からなぜエアロビクス・インストラクターに転身したのか?
第六章 インストラクター時代に育んだパーソナルトレーナーとしての心得
第七章 エアロビクス・インストラクターの限界
第八章 集まってきたのは、子育て中のママやこれから子育てをする女性たち
第九章 私がこれからすべきトレーナーとしてのミッション(使命)

第一章 「秋田の血」が流れる森本さおりの生い立ち

1972年、私は秋田県に生まれました。(年齢がわかってしまいますね)
最近は東京へ勉強に行く機会も増えました。夏はヒリヒリ熱くムシっとしています。
空気もどんより。 秋田がいかに素晴らしい地なのか再確認できるときでもあります。
さてどのような経緯で私、森本さおりがパーソナルトレーナーになったのかお話します。
セッションを受けようかどうか迷っている方は参考にしてくださいね。

家族は、国鉄の職員をしていた父とパートの母、4つ年上の姉の4人暮らしでした。
父はそれほど厳しい人ではありません。
仕事柄泊まりが多く、休みの日でもよくパチンコに行っていたのでほとんど家にいない人です。
たまに日中家で父を見かけるとびっくりしてしまうほどです。
女性ばかりの家だったので父は少し肩身がせまかったのかもしれませんね。
母の性格はひと言で言えば「心配症」。
特に身体のこととなるとすごく気にかけてくれる人でした。
そんな母なので小さい時から健康的な自然食を食べて育ちました。
冷蔵庫には牛乳と麦茶しか入っておらず、お菓子もほとんど家にありません。
パートで遅くなるときでもしっかり食事を作ってくれ、
お弁当など出来合いのものを出されたことはほんの数える程度です。
私が健康で、多少の無理がきくのは、母のおかげかもしれませんね。
食べるものが体を作りあげていくという、
当たり前のことではありますが実感できるようになりました。
温かい家庭で笑顔が耐えない家族に囲まれて育ちました。

第二章 身体がつくられた学生時代

健康そのものの身体だったので、小さい頃から運動が好きで得意でした。
中学生の頃は卓球部でしたが、高校に入学したとき同じクラスの子にバドミントン部を作ろうと誘われました。
バドミントン部は私が入学したときは無かったのです。
そもそもこれから作るなら強くないだろうと思いました。
バドミントンは遊びのレベルでしか知りません。
全く気がすすみませんでしたが、特に入りたい部活もないし何度も誘われるので入部することにしました。
といっても最初は同好会からのスタートです。
ちょうどその年に赴任してきた先生がバドミントンの先生で顧問になりました。
かなり熱血な先生で、指導した学校は強豪校になると評判でした。
案の定、基礎トレや地味な練習がひたすら続きました。
同好会ということもあって部費も出ず、練習場所もありません。
毎日の練習は学校近くにある有料の公共施設を借りて練習していました。
その施設が利用できないときは、他の部活が終わるのを待って
学校の体育館で練習する 厳しい練習環境です。 文
句をいいながらも練習を続けていると、
初めの頃ボロ負けしていたのが次第に他校の3年生にも勝てるようになってきたのです。
私たちが2年生になったとき後輩も入ってきて、
団体戦では準決勝や決勝に上がるくらい表彰台の常連校になりました。
東北大会に出場も果たしました。
大会で結果を出せば同好会から部活になるものだと思い、
それを励みに団結して頑張っていました。
しかし気付くと同級生の部員は20人から3人になっていました。
ただ後輩の頑張りにも助けられ、3年間キャプテンとして部を支え、
とても充実した高校生活を過ごすことが出来ました。
体をつくるということは、コツコツと
地道につくりあげていくもの
なのだということがわかりました。
そしてトレーニングをしっかりやっておくと
後々まで「健康貯金」は貯まる
のだということもわかったのがこのときです。

森本さおり 女性専門 パーソナル トレーニングスタジオ Fine

第三章 軽く考えていた就職先で待っていたもの

高校卒業が近づくと進路のことを考えなければなりません。
しかしバドミントンはもうやる気にはなりませんでした。
そこでバドミントン部に入ることが条件になる実業団や大学は自然と却下となります。
とは言え、これというやりたいこともありませんでした。
そこで「土日休み・給料も高い」というだけで金融関係のお仕事に就きました。
入社した頃は営業の指導がかなり厳しかったです。
『お客様第一主義』とうたっていたので接客に対して徹底的に学びました。
今思えば様々な年齢・世代に対応できる力がついたのはその頃かもしれません。
当時は大変でしたが、その経験は確実に今に繋がっていると思います。
この当時の経験は仕事に対する向き合い方を覚える期間だったのだなと実感しています。

第三章	軽く考えていた就職先で待っていたもの

第四章 子育て中に唯一の「私の時間」だったダンスとの出会い

3年勤務した1994年、夫と出会い結婚しました。
22歳のときです。 結婚を機に退職し専業主婦となりました。
2年後に長女、さらに3年後に長男が生まれました。
専業主婦もしたかったし、子供が小さい時は家にいたいという希望もあったので本当に楽しかったです。
第四章	子育て中に唯一の「私の時間」だったダンスとの出会い
しかし主婦業にも慣れてくると心の中にモヤモヤが湧き上がってきたのです。
主婦業に専念する事は兼ねてからの夢でした。
ところが楽しい半面、このままじゃもったいないと思い始めました。
子供が小学校に入って自分にまとまった時間が出来た時に仕事をするとしたら…。
そんなことが頭に浮かびはじめていたのです。
この頃は子供や夫中心の生活です。
しかし一週間に一回だけ「自分だけの時間」がありました。
それは息抜きで始めていたジャズダンスです。
その一回のレッスンが楽しみだったので、どんなきついことがあっても耐えられました。
子供の卒業式に出席していた時こんなことを考えてしまったことがあります。 子
供には卒業、そして進学と人生に節目がある。 新しい目標や希望を持って進んで行く。
次のステージがあっていいな、羨ましいなと思ってしまったのです。
「私にとっての人生の節目がいつからなくなったのだろう」
そう考えるようになり気持ちが落ち込んでしまいました。
高校卒業、結婚、出産・・・と振り返ってみると
出産を最後に私の人生には節目がなくなってしまいました。
いつの間にか子供の成長、初節句、七五三、入園、入学式、卒業式などを
自分の節目のように思っていた事に気付いてしまったのです。
それは「私」ではなく「子供」の人生。 OL時代は専業主婦に憧れ、
子供が小さいうちは一緒にいてあげたいと思っていました。
実際、子供達の成長は嬉しいですし、妻や母としてのやりがいや、喜びもありました。
ですが、これから先ずっと妻、母だけで終わるの?
自分は家事、育児に専念して子供の成長を自分の人生の節目として生きて行くだけなの?
と、モヤモヤとした気持ちが湧き始めたのです。
子供はいつか私のもとを離れていく。 その時自分は何をしているのだろう。
そんな不安も出てきました。
そして、これからは妻、母としてはもちろんですが自分の人生も生きたい。

生きよう。

そう思うようになりました。
この時はまだ、 「10年、20年後の自分はこうなりたい!」
という具体的な夢がなく、ただ今のままダラダラと歳をとっていき
オバサン、お婆ちゃんになりたくないという気持ちが大きかったと思います。
そして、何がしたいのかはわからなくてもこのままじゃ嫌だ。
変わりたい。 何かしたい。 と言う気持ちにフタをしない、諦めない。
自分の人生の節目は自分でつくる。 そう思うようになったのです。

子どもたちの卒業式は私の「専業主婦の卒業」が始まる日でもありました

第五章 専業主婦からなぜエアロビクス・インストラクターに転身したのか?

これまで専業主婦だった私の自分探しが始まりました。
そこで私が漠然と考えはじめたのは「エアロビクス・インストラクター」の仕事でした。
ではなぜエアロビクスのインストラクターの仕事をすることになったのか?
きっかけは、そのときダンスを習っていた先生が新しくスタジオをオープンすることになったことです。
その時、先生としてジャズダンスを教えてくれないかというお誘いをいただいたのです。
ジャズダンスを自分が踊っている時は楽しいけれど、
教える基礎知識はまったくないし、
真剣に教えるとしたらどうなのだろう?
ジャズダンスの先生として教えることを考えあぐねていると、
今度は「エアロビのインストラクターを養成する先生を見つけたから習ってみたら?」
と勧められました。
ところがエアロビに対してはそれほどいい印象を持っていませんでした。
以前受けた体験レッスンで苦い経験をしていたからです。
周りは60代の主婦ばかり。
テンポは早いしステップもわからないし、全くついていけなかった経験です。
その時はすごく置いていかれるという印象で苦痛でしかありませんでした。
そんな思い出もあり、あまり乗り気ではありませんでしたが
軽い気持ちで話だけ聞いてみることにしました。
ところが、先生の話を聞いてインストラクターの仕事にとても興味がわいたのです。
「エアロビを通して身体のために指導するインストラクターを育てたい」
「身体のために運動を教えることができるレッスンをしていきたい」
その話にとても共感しました。
自分としても知らない分野に飛び込むのは好きでしたし、
子供のタイミングとしてもよかったので、インストラクターに挑戦する事にしました。
その後、大手スポーツクラブの秋田支店でインストラクターの養成を受け始めました。
私はよくありがちな元気ハツラツなだけのインストラクターにはなるまいと心に決めていました。
前述しましたが体験セッションでつらい思い出があるからです。
最初は誰だって踊れない。
そんな前提でセッションを行おうと心に決めていたのです。
どんなに人数が多かろうと、ひとりひとりの表情を見ました。
落ちこぼれてしまうような人を出さないように常に気を配って指導し続けました。
するとその全国展開している大手フィットネスクラブにおいて、
秋田県ではトップクラスの人気インストラクターになっていました。
自分ではそんな実感がないので驚いています。

専業主婦からなぜエアロビクス・インストラクターに転身したのか?

第六章 インストラクター時代に育んだパーソナルトレーナーとしての心得

そしてその後、秋田県主催の教室でもエアロビのインストラクターを始めました。
フリーのインストラクターになってからは10年程レッスンをしてきました。
秋田では健康づくり事業として市の施設を使って、
秋田の職員やインストラクターが運動指導する取り組みが行われていました。
最初集まった生徒さんは10人くらいでした。
その地域のひとたちが集まっているという感じです。
それが教室の回数を重ねるうちにどんどん口コミで広まり、
25人の収容スペースがぎゅうぎゅうになるほどになりました。
そのときはまだ実績もなく広いスペースを借りることはできなかったので、
回数を2回に増やすことになりました。
するとその2回の教室が満員になり、
50人を越えるようになって安全面からそれ以上のお申込みはお断りをすることもありました。
別の教室では、今まで使っていたスペースではお客さまが入りきらなくなり、
市の対応も変わってきて、ついには体育館を借りてレッスンを行う程になりました。
その時は毎週末70人のお客さまが集まっていました。
私がレッスンをする上で気を付けていたのはとにかくわかりやすくすること。
そして頑張らなくていいよと声をかけることです。
大勢のレッスンに出ると続かなくなってしまうことが多いのです。
自分だけ出来なかったり周りが上手にできているように見えたりすることもあります。
やがてついていけないのは自分だけかもという感覚が芽生え、疎外感を感じるようになってしまう。
私にも同じような苦い経験があるだけに、
そんな思いをさせまいとお客様に寄り添った
レッスンをすることで好評をいただいていたのかもしれません。
上手にやるのが目的ではありません。
「自分の身体はどんなふうに動くの?」とか「今日の身体の調子はどうかな?」とか、
日々同じことを同じように続けていくことを意識してやることをすすめていました。
それを継続していくことで、よく眠れるようになったとか、
ご飯がおいしく食べられるようになったとか
そういう自分を感じてほしいという話をよくしていました。
私自身もこういうところがよくなったという話を聞くと本当に嬉しく思います。
女性が中心でしたが、徐々に男性も増えていき、
90%近くがリピーターになってくれました。
気づけば10年間延べ20万人以上の方々にセッションを行い、
とても楽しかった思い出です。
このお客さまに寄り添っていくような指導法は
今のパーソナルトレーニングの指導の基礎となっています。
インストラクター時代に育んだパーソナルトレーナーとしての心得

第七章 エアロビクス・インストラクターの限界

エアロビのインストラクターを10年程続けた頃に、
よく病気やケガを理由に教室に来られなくなった
年配の方やリタイアせざるをえない人を見かけるようになりました。
エアロビでケガをしたわけではありません。
加齢や運動不足によって引き起こる病気や ケガです。
そのお客様からまたみんなと一緒に動けるようになりたいというお話を聞いた時に、
何かできることはないかと考え始めました。
年齢によるものや、体力や身体に不安がある方、
レッスンを受けてみたいけど子育てをしている方は、
どのようなレッスンを望んでいるのかなと。
それで考えたのが1対1の個人的なレッスンでした。
パーソナルトレーナーという仕事はお客さまと1対1で向き合います。
そしてエクササイズ指導を行いお客さまの健康面・美容面をサポートし続けるお仕事です。
大勢でやるレッスンと違って人と比べなくてもいいし、
自分のペースでできる。 何より一人ひとりのお話を
聞いてあげることでよりいい指導ができると感じました。
自分が専業主婦の時に子供や夫が中心の生活の中で唯一ダンスが至福の時間でした。
今同じような生活をしている30代、40代の子育て世代の方も通えるような場所を作りたい。
そう思って始めたのがパーソナルトレーナーの仕事です。
2016年、 パーソナルトレーニングのスタジオをオープンしました。
資格をとるために東京まで勉強に通ったこともあります。
そしてお金を工面するために助成金もとりました。
スタジオを立ち上げるまでは 「そんなのできるわけないよ」
「今までやってきたことになんの不満があるの?」
「家事に支障でないの?」 と聞かれることもありました。
でもわたしは後悔したくなかった。
一度しかない人生ですし、やり遂げようと思ったのです。
ここまでが、私のエアロビクス・インストラクターから
パーソナルトレーナーに転身した理由なのです。
第七章	エアロビクス・インストラクターの限界

第八章 集まってきたのは、子育て中のママやこれから子育てをする女性たち

今現在教えているのは、それぞれいろいろな悩みや
環境で個人的なレッスンを必要としているお客さまばかりです。
お子さんが一緒だったり、運動経験ゼロで体力に自信がなかったり、
膝や腰、肩に痛いところがあったりする方もいます。
教室に通うとみんなと一緒の運動をするのが不安。
だけど一人だと続けられない。
個人的なレッスンの魅力は、そういう方たちの様々な想いを
汲み取って不安を解消してあげられる指導ができることだと思います。
難しいレッスンはテクニックが必要です。
ただ私はレッスンの長い短いに関係なく、
いつからでもだれでもできる指導を心掛けています。
そこにこだわってやってきたので、
それをお客さまに受け入れて
もらっていることはとても嬉しく、本当にありがたく思います。
女性はいつの時代でも自分の時間はほとんどありません。
特に子育てや介護などどうしても女性の力を必要とするからです。
私のところに通われている人の中には60代の方もいらっしゃいます。
自分が年を取って介護される立場になってしまった時に、
自分の子供の時間やお金を奪ってしまうのではないかという不安をお持ちです。
今まさに介護によって自分の時間が拘束されている人は、
特に心配になるのではないかと思います。
自分が健康でいることは家族のためにもなります。
自分のために時間を使ったり、ストレス発散で
運動したりするのは全くワガママではありません。
せっかくレッスンに来てもどこか引け目を感じていると全然楽しくないと思います。
好きなことができて家でニコニコできる女性の方が絶対にいい。
身体を動かすことや話を聞いてあげることで気持ちが
リフレッシュするのであれば、応援したいと思っています。

第八章	集まってきたのは、子育て中のママやこれから子育てをする女性たち

第九章 私がこれからすべきトレーナーとしてのミッション(使命)

秋田県は自殺や鬱、ガン死亡率も高い県です。
高齢者が多いことが原因なのかわかりませんが、
もっと元気で長生きできる高齢者が増えてほしいと思っています。
そのためには健康寿命が本当に大切です。
長生きしたとしても自分で何もできなければ楽しくはありません。
今元気な50代60代の方がさらに20年、
体力や気力を維持することができたら叶うのではないかと思います。
何もしなければ体力・気力は下がる一方です。
みんなが少しずつ何かを心掛けることができたら、
そして自分が指導することでその手助けが出来たら将来に繋がるのではないかと思っています。
そのためには30代~40代のころから運動をしてもらい、
いつまでも美しく更に健康寿命を伸ばすことです。

短期的なものではなく長期的なサポートが必要と考えています。
そこで私は「子供同伴」のセッションも受け入れています。
私がこれからすべきトレーナーとしてのミッション(使命)

子育て中だからとレッスンを受けることあきらめてほしくないのです。
それ故に安心して指導を受けられる環境づくりから始めました。
運動を長く続けられるように激しい動きではなく、
ボールやストレッチポールを使い呼吸を意識しながら
引き締まったボディラインをつくりあげる指導をしています。
子供がいるからと言って、所帯じみたり生活臭いと思われたくない方や、
今はやりたい事が見つからなくても魅力ある女性として生きるために太りたくない、
綺麗でいるための意識を持ち続けたいという方々が集まるようになりました。
ありがたいことに多くの女性にお喜びいただき、
現在は予約がとりにくい状態となっています。

私は思うのです。
「あの専業主婦の頃の自分のような人のためにセッションをしたい」と。
毎日子供や夫など家族のためにすべての時間を尽くしている女性たちに
「あなただけの時間」をプレゼントしたいのです。
パーソナルトレーニングをしている時間は、
「あなただけの時間」です。 その時間は、自分を輝かせる時間にして欲しい。
そう思いながら毎日お客さまに向き合っています。

以上が、私のパーソナルトレーナーになった理由です。
最後までお読みになっていただきありがとうございます。
mori12
自信湧き上がる大人の健康美を作る
秋田美人養成パーソナルトレーナー  
森本さおり

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